2023年2月3日(金)BS-TBSにて西城秀樹さんの特番「歌声は永遠に 甦る情熱と汗の全軌跡」が放送されました。番組タイトルの通り、木本龍雄の生誕から西城秀樹としてこの世を去るまでの全軌跡を21:00~22:54までの2時間に凝縮。
この番組は2022年5月13日(金)に放送されたものの再放送ということもあり、もう当分は再放送されないと思うので、番組を見逃してしまった方に向けてセットリストや番組の構成などについて振り返ってみたいと思います。
【レビュー】西城秀樹「歌声は永遠に 甦る情熱と汗の全軌跡」
セットリスト
はじめに番組内で流れた歌唱シーンを番組の流れに沿ってリスト化しておきます。西城秀樹さんに関するたくさんの映像が流れましたが、ここでは放送年月日と放送番組についてテロップで表示されたもののみ記載しています。
- ブーメラン ストリート(令和4年4月14日 大阪オリックス劇場 ※フィルムコンサート)
- 炎(令和4年4月14日 大阪オリックス劇場 ※フィルムコンサート)
- ギャランドゥ(昭和58年4月17日 TVジョーカーズ笑)
- 青春に賭けよう(昭和48年3月24日 8時だヨ!全員集合)
- 情熱の嵐(昭和51年2月29日 セブンスターショー)
- 情熱の嵐(昭和48年6月9日 8時だヨ!全員集合)
- ちぎれた愛(昭和48年12月31日 輝く日本レコード大賞)
- 薔薇の鎖(昭和49年2月16日 8時だヨ!全員集合)
- 激しい恋(昭和49年5月25日 東京音楽祭国内大会)
- 恋の暴走(昭和56年8月17日 夏の後楽園)
- 傷だらけのローラ(昭和49年9月28日 8時だヨ!全員集合)
- ブーツをぬいで朝食を(昭和53年2月16日 ザ・ベストテン)
- 君よ抱かれて熱くなれ(昭和51年2月29日 セブンスターショー)
- ジャガー(昭和51年6月19日 8時だヨ!全員集合)
- 若き獅子たち(昭和51年9月8日 ゆかいな音楽界)
- しあわせの一番星(昭和49年1月23日 寺内貫太郎一家 第2話)
- ブーメラン ストリート(昭和52年4月9日 8時だヨ!全員集合)
- YOUNG MAN(Y.M.C.A.)(昭和54年3月15日 ザ・ベストテン)
- YOUNG MAN(Y.M.C.A.)(昭和54年3月29日 ザ・ベストテン)
- ホップ・ステップ・ジャンプ(昭和54年7月19日 ザ・ベストテン)
- 勇気があれば(昭和54年9月20日 ザ・ベストテン)
- 炎(昭和53年6月18日 第7回東京音楽祭世界大会)
- 俺たちの時代(昭和55年7月24日 ザ・ベストテン)
- 情熱の嵐(平成24年9月16日 ブラジルでのコンサート)
- YOUNG MAN(Y.M.C.A.)(平成24年9月16日 ブラジルでのコンサート)
- ナイト・ゲーム(昭和58年5月15日 ザ・ヒットステージ)
- ブルースカイ ブルー(昭和53年10月7日 8時だヨ!全員集合)
番組の構成
イントロダクションでは本編のダイジェスト映像が流れました。イントロといっても約5分ほどあり、本編の内容の濃さを暗示する巧みな構成でした。
本編は以下の流れで進行。特に印象深かった部分はピックアップして簡単にまとめておきます。
- 2022年に行われた西城秀樹さんのフィルムコンサート「THE 50」の様子(4月14日の大阪オリックス劇場にて観客入場シーン、コンサート中に色とりどりのペンライトが振られるさま、ファンへのインタビュー、同年年4月3日に神奈川県民ホール前でのファンへのインタビュー)
- デビュー間もないヒデキのインタビュー映像(スポニチ芸能ニュース)
- 「恋する季節」秘話
- 作曲家 鈴木邦彦のインタビュー(ヒデキへの曲作りについて)
- 振付師 一宮はじめのインタビュー(「情熱の嵐」の振りについて)
- 野外コンサートについて
- 作詞家 阿久悠との出会い
- 俳優 浅田美代子のインタビュー(寺内貫太郎一家の思い出など)
- 元RCA宣伝部 庄司孝之のインタビュー(YOUNG MANの凄さ)
- 26才の誕生日インタビュー(番組「3時に会いましょう」にて)
- アジア、そして世界で認められる歌手に
- 結婚(伊豆 白濱神社にて)、父親、脳梗塞(ワイドショーなどの映像)
- 復帰後の50才バースデイライブ、デビュー40周年記念コンサートの様子
- 2度目の脳梗塞、復帰後のブラジルでのコンサート、現在の心境を語った独占取材映像、横浜で行われた脳卒中市民啓蒙キャンペーンでの様子
- 還暦記念コンサートの様子
- 告別式の様子
- 西城秀樹について(浅田美代子、鈴木邦夫、庄司孝之より)
スポニチ芸能ニュース
デビュー間もない頃のヒデキの映像。胸に「CORNELL UNIV.99」と白字でプリントされた真っ赤なTシャツを着て、口笛を吹きながらぶらぶら住宅街を散策。その後、居候先で与えられた部屋のベッドに腰掛け、ヘッドホンで音楽を聴きながら何かを歌っています。そしてインタビューへ。
Q:出身地はどちらですか?
A:広島県出身の広島市内です
Q:西城秀樹って本名ですか?
A:本名は木本龍雄で、西城秀樹っていうのは「女学生の友」に僕の芸名を募集して6,000通の中から西城秀樹って決まったんです
Q:広島では「広島のジュリー」なんて愛称で呼ばれてたそうだけど、歌はいつ頃から始めたの?
A:歌は小さい時からやってました。小学生の2,3年のことからずっと。町内の祭りなんかでよく歌ってたこともありました。
Q:広島のジャズ喫茶のファンがあなたが上京してしまうっていうので泣いて別れを告げたそうですね
A:広島にいた時、「ジプシー」ってバンドを作ってたんですね。そのバンドにファンがいて、お別れパーティーをしたところで、東京に行くってことで見送りに来てくれましたけどね。
インタビュー後、西城秀樹さんが自転車に乗ってスタジオへ向かうシーンに切り替わります。「さあ、練習、練習、みなさん、練習ですよ~」。そう言いながら自転車ごとスタジオの壁にドーーーンと激突。転倒しそうになるヒデキさんを見て、カメラクルーの方?から「あっ!!!」と驚きの声。そして、スタジオでの練習風景になります。歌っていた曲はリトル・リチャードの「Good Golly,Miss Molly」。
「恋する季節」秘話
「恋する季節」は西城秀樹のために書かれたた曲ではなく、ザ・カーナビーツのアイ高野のために書かれた曲だったが採用されず、秀樹のデビュー曲となった。そこで次は西城秀樹のため曲を作ることにし、白羽の矢が立ったのは作曲家の鈴木邦彦だった。
インタビュー(作曲家 鈴木邦彦)
- 秀樹とは17才の差があった(鈴木が年上)が、お互いに言いたいことを言う音楽仲間だった
- ヒットするか分からないけど、歌いたい曲を歌うという感じで選曲した。秀樹とはこういう作り方をした数少ない歌手の付き合い方だった。
- 秀樹はリズム感がいい
- 秀樹に関しては歌いにくそうだからこの部分は変えようとか、そういう考えでやることはなかった
- 秀樹の人気が高まるにつれファンがキャーキャー騒ぎ歌を全然聴いてくれない。そこでスタッフからファンと一体となる曲を依頼された。ファンは聴き手じゃなくて仲間なんだという発想からコール&レスポンスを「情熱の嵐」に入れ込んだ。
インタビュー(振付師 一宮はじめ)
「情熱の嵐」の振付について。「君が望むなら~」のコール「ヒデキ!」の手をひねる動作は、一宮が自宅に帰宅しドアノブをガチャガチャ回した時にひらめいた。
作詞家 阿久悠との出会い
シングル3枚で秀樹を少年から青年にして欲しいと言われた。売れる曲を作って欲しいじゃないこの言葉に心動かされ承知した。
「巨星・阿久悠の世界」(平成19年9月12日放送)に出演した秀樹より「阿久悠さんは作詞家というより作家というイメージでした。歌詞の前後のドラマを自分で作らないと歌えないんですよ。それを宿題としていつも出してくるんです。」
インタビュー(女優 浅田美代子)
- 秀樹は気遣いの出来る優しい人でみんなから可愛がられていた
- 大スターなのに全くそういう素振りはなかった
- 樹木希林は結婚相手がいないなら知人(17歳ぐらい年下)を紹介すると言っていたが、秀樹が気になる人がいると言い、樹木希林にその人を紹介した
- 60,70歳の秀樹を見たかった。勉強家だったからもっと素敵になっていたと思う。
寺内貫太郎一家での思い出は、
- 秀樹は食事のシーンで使われるご飯が美味しくて本番終了後もずっと食べていた
- セットの自分の部屋でよく寝ていた
- 「しあわせの一番星」のデュエットは同学年の異性ということもありドキドキした。プロデューサーの久世光彦が「見つめろ!」とか言うので余計に恥ずかしかった。
インタビュー(元RCA宣伝部 庄司孝之)
- 「YOUNG MAN」は秀樹が渡米した時に知ったヴィレッジ・ピープルの曲で、そのカバーのレコーディングを自ら熱望。社内では反対する声もあったが、編成会議とかをすっ飛ばしてリリースを決定した。
- テレビやラジオの出演後、自分自身をチェックするために人に意見を聞いたり、別室でビデオを見たりとセルフプロデュースの出来るアーティストだった
アジア、そして世界で認められる歌手に
昭和56年、香港の音楽祭に招かれ、それをきっかけにアジアで秀樹ブーム到来。シンガポールや北京でアジアのスタートしてステージに立った。
脳梗塞から復帰後の秀樹の心境(平成25年3月8日インタビュー映像)
- この状態を受け入れて前に進むしかない
- 自分にやる気を起こさせないといけない
- 家族が一番。待っている人たちがいるから頑張れる。
- 一番思い入れがある曲は「ナイト・ゲーム」。デビュー前から趣味でやっていたバンド活動の頃の気持ちや経験が全部生かされている感じがするということと、自分が一番画を通したという意味で。
- 今後の夢。これまでフルオーケストラやバンドで歌ってきたけれども、お宅に行ってピアノだけでも歌うよっていうのもいいんじゃないか、そういう温かい感じがやりたいですね。
終わりに
今回放送された「西城秀樹 歌声は永遠に 甦る情熱と汗の全軌跡」は、熱烈なファンのみならず、これから西城秀樹というアーティストを知ろうとする人にも西城秀樹の魅力は何なのかということを分かりやすく丁寧に伝えようとする構成で、作り手側の愛を感じました。
特に70年代の西城秀樹さんの衣装はカラフルで華やか。裾や袖口がヒラヒラしていて、熱いパフォーマンスが繰り広げられるたびに衣装も躍動します。そういう光景を見ていると、レコードやCDで聴くのもいいけど、
やっぱり秀樹はライブ!
テレビ局のスタジオ歌唱は秀樹のパフォーマンスを殺している!
お客さんがたくさん集まることの出来る会場こそ秀樹の真骨頂!
様々な映像を見ていて、秀樹さんのスケールの大きさからそんな風に感じてしまいました。
私は昭和40年代生まれでもう50を過ぎました。これからもきっと色々なことがあると思います。でも、秀樹さんが言っていたように全てを受け入れて悔いのないよう前に進むという志を持ち、常に新しいことに興味を持ってワクワクしながら明日を迎える、そんな人生を歩んでいきたいといきたいと思います。
西城秀樹さん、感動を与えてくれて、人生を教えてくれて、ありがとうございます。そして、こういった愛のある番組を作ってくれた番組制作者の方々に感謝申し上げます。